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[本]孤宿の人


宮部みゆき著


先日、「狩人と犬 最後の旅」という映画を見てきました。
読みながら度々アラスカ、カナディアンロッキーの北のはずれ辺りの広大な美しかった景色を思い出していました。この物語もとても景色描写が多いのです。
宮部さんの後書きに「讃岐丸亀をモデルに」と、書かれていて、その海と空と山の様子が繰り返し繰り返し描写されていました。
それが又如何にも日本の海と山と空らしく・・・実際行ったことはありませんが、丸亀辺りの小さな漁港と湾がちんまりと目に浮かぶようでした。
全く違うでしょう?なのに、その二つの自然の(多様な?)有り方をなんとなく、そうですねぇ、感嘆の思いで心の中で対照させていたのです。どこまで行っても自然と人は切り離せない!
自然もそれと向き合う人の姿勢もこんなにも違うのに、でもどこか相通じるような・・・生活から学び取って伝えられる智恵に同じような匂いがあるからでしょうか?
昔から人は生活の必要から天候の転変を知る知識を蓄え、伝えてきたのです(うさぎが飛ぶと半日と経たないで大風と雨が来るみたいに)、そこが私にあの映画を思い出させたのかもしれません。
「この自然の中にはこの人々!」でしょうか。
それにしても天候の変化の描写が・特に雷の表現がこの物語に迫力を与えていました。
主役の一つだったと言ってもいいでしょう?
あの映画は「最後の旅」にはならないのじゃないか・・・という希望?があって、心が楽になりましたが、この物語は完結しましたがどっかり重石をのせられたような後味が違いました。
やはり先日書いた「あやし」と同じ世界だと言ってもいいでしょう。
あのイメージを膨らまして長編が生まれ出たのじゃないでしょうか?「畏れ」の世界だと思いました。
「加賀様」が象徴する「鬼・異形の者・怨霊・祟り・・・」など・遠方から来る見知らぬ怖いもの全てとその地に根ざした畏れ敬われる怖いもの全てのぶつかり合いから生じる混乱!
その恐怖に心が絡み取られる昔からの人の変わらぬ世界がこの物語世界です。
阿呆の「ほう」という名をつけられた少女と、ウサギのようにはしこい目と体を持った「宇佐」という少女の二人語りの体裁で丸海藩の「その夏」が語られ、彼女等も翻弄され・・・成長し役目を果たし終えます。それでも未来は定かではありません。
人の世はひとつ事が過ぎても簡単には明るくはなりませんから。
自然の中で「素朴に生きる」ということはある意味「頑固頑迷、流言飛語に弱い、迷信に付き纏われる」ということと、この場合同義語です。
その意味では今も大差ないのがこの世でしょう。何か大災害があったら1番怖いのは火事?2番目は流言飛語、間違った情報ですよね。
ん?反対かな?
「加賀様」の情報不足または過多が招いたともいえますが、「加賀様」自体が闇そのもの鵺のようなものですものね。
「何が正しくて何が確かか」極める目を持った者はどのくらいいるのでしょう?
正しい情報がどれだけ大切か・・・いや正しければそれで済むのか?今も昔も難しい問題ですよねぇ、とため息が出ます。
それにしても理不尽なこの物語世界にも「ほう」が「方」になり「宝」になっていくその過程で光が射したようです。
「宇佐も殺す必要は無かったじゃないの!」と腹をたてながら、終わりの数ページ涙を止められませんでした。
本当に「あやし」と同じで「いやったらしい話だよ!」と思う気持ちの一方で「聡過ぎない」生き方が一番心を打つのかもと、「ほう」の周りに居た優しかった人の心を懐かしんでもいます。

          

           

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