[ 本]ひとり日和
青山七恵著
初めてじゃないでしょうか。私が芥川賞とか何とか賞とかをとった作品をこんな早く読むのは。(図書館待ちの時間分遅くなっただけです)おまけに近年争うように若年化している受賞者のニュースを聞けばなお更読むには抵抗があります。
これらの賞は青田買い、これから長く稼げる(はず?)作家を売り出すためのものだったのかしら?熟成する前に?時間や資本をかけないでとりあえず稼ぐぞ?って出版社乃至何かの方針?だからそれらを、読みもしないで眉唾眉唾と思っていましたから。はなっから熟成させるつもりも無い?作家の、使い捨ての作品読んでどうするの?みたいな。
とか何とか・・・って、つまりはそんなにも若くなってしまった、いやこんなにも若い人の作品の感性なるものについていける気もしないし、迎合するのもくたびれそう・・・ってだけなんですけど。題にも食指が動く物は無かったし・・・。
ところがこの作品は、この題に惹かれました。
言ってみれば私は生きてきたこの何十年余り、殆どひとりで一人の日和を謳歌(これって見栄?)してきたようなものです。
子育ても、あっ結婚もしましたし、勿論ご近所付き合いも、友達付き合いもそこそこあったことはありましたけれど、ぼちぼちにそれらと付き合った後の一人はなんと心地よいことかと思い暮してきましたからね(シラノの心の羽飾り!)。
私と同じような引っ込み思案?のひとり日和はどんなもんかなぁ、ちょっと覗くのもいいかな?なんて乗りでした。
この題若さを感じないんですよ。普遍的でしょ?だから妙に青臭く生臭く押し付けられないで済むんじゃないかな、若さを!って感触ありましたしね。で、結果、見事に、見事すぎるくらい若さを押し付けられないで済みました。
いえ、文章自体、使われている言葉、そんなところにはちゃんと作家の年齢が臭っていることは臭っているし、その年代の気負いが気取りがちゃんとある文章でもあったのですけれど、切り取って描いている日常が余りに淡々としている様に装っているので、うっかり若さを見落としそうになるのです。ふうーん、お気に入りの切り口と投げ出し方を見つけられたのねと、ちょっとこの繰り広げた日常に被せた薄い明度の高いグレーにうらやましさを感じてしまいました。
私の20歳の頃の世界・・・ったって、それは私だけのものですから比べようもありませんが、ここにこういう風に投げ出されたこの娘智寿さんの年頃の世界は私には理解できないだけに、今この世代の普遍的ワールドのような錯覚をもたらしました。
直裁に行ってしまうと「カワイそうに!」です。何が?余計なお世話ですよね、実際のところ。
それでも、その気持ちの中にはこんな風な「あなた、ずいぶんと生き難そうね。傷もあるかもね?あったとしても傷から流れている血がとても薄そうで、それって楽なのかしら?楽だとしても価値があるかどうかは別の問題ね。でも私の若かった時よりキレイに人付き合いも、社会との兼ね合いも何気にさらさら上手にやっているじゃん、あの頃の私なんかよりもズーット・・・」です。
そんな風に思えました。でもあの頃の私や友人よりも?すさんでいるようにも思えましたけど。
だから、むしろ私にとっては吟子さんの方が主人公でした。
シチュエーションは吟子さんのものですよ。彼女こそがあの線路と駅と家との主ですよ当然?智寿さんは通り過ぎて行く人ですよ。
この娘から見ている吟子さんに肉付けをしていけば・・・私のいい?先達になるかもしれませんね。
もっともこの若い作家がこの年の人を理解できるとは思えないのですけれど、その上で彼女たちから見える大人のさらさら感のある、したたかな生き方ってどんなものなんだろうねっていう興味ですか。
流れる事を意識しないで流れて行く、年をやり過ごしていくっていう感じって、こうむった痛手は既にそんなことの形跡はまるで無かったように消えている、そういう風に見えるって、はて、それじゃ生きてなんになるんでしょ?この明度の生活感の中に浮かび上がる母も藤田君も陽平も智寿さん本人も皆凄い感度のセンサーを持っていて昨日と違う何かを感知するとさっと方向転換をしてしまう生きもののように見えるって・・・これ何ですか?吟子さんだけはその中ではまだ生きていそう、むしろしぶとく?
この作品の中の大多数の人物は作品から出てきて歩き出す足持っているのですかねぇ?足も影もなさそうな人たちの、体臭の薄そうな人たちの、悲しみは悲しみで、喜こびは喜こびで、結局どうでもいいんでしょう?と言いたくなって、私はあなたたちとはお付き合い出来ませんし、して貰えそうもありませんしねと、横をすり抜けさせてもらいました。